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長崎県 後編


後編スタート


亀山社中



ここに行ったのは2010年のゴールデンウィークであるが、ちょうど大河ドラマの龍馬伝が大ヒットしていることもありかなりの賑わいを見せている。
8月〜9月頃にはドラマの中でも亀山社中が舞台となるので夏休みになればさらに大勢の観光客で賑わうことになると思われる。


亀山社中に駐車場はなく、左の写真のような狭い路地を歩いて登ってくる必要がある。ちなみにこの時は先ほどのシーボルト記念館に許可を得て停めさせてもらっていた。


亀山社中の内部は昔ながらの和室となっており、資料が所狭しと展示されていた。私も大河ドラマを今年から見るようになったので少しわかる(でも見れない時もあった)

竜馬とあまり関係ありませんがちょっとビックリするガードレールを発見しました。
一見普通のガードレールに見えますがこのガードレールは石で出来てます。
手で叩いてみると確かに「石」であり車が当たったら壊れてしまうような感じでした。
よく観光地では周囲の景観に配慮してコンビニの看板が白黒になっていたりしますがこういった公共の物品に関しては他に類を見ない。


それにしても長崎は坂が多い街である。それだけにこんな絶景を簡単にゲットできるので知らず知らず足取りも軽くなる。不思議と疲れが出てこない。

このあたりは龍馬ブームに乗っかって地域振興に役立てている。地方財政が厳しいのはよく分かる。最近では歴史好きな女性で「歴女」も増えているという。歴史は男性の嗜みなどという考えは今では古いのだ。
今年は長崎や土佐は大河ブームでお祭り騒ぎだと思うが、それ以外の地域でもご当地グルメに力を入れたり地元のマスコットキャラクターを売り出したりして四苦八苦しているのが伺える。


龍馬は日本で初めてブーツを履いた男とも言われている、というか↑これに書いてあった。巨大なブーツのオブジェがあったので当然履いてみる。別に土足で履いてちゃだめとは書いてなかったからいいんだと思う。



ここからは長崎市を離れて諫早湾へと向かいます。
諫早湾は1980年代に国策により干拓地にされることになった湾である、それから何年もかけて干拓工事は進み、諫早湾の水門が一斉に閉まる光景をテレビのニュースで見たという方も多いと思われる。
ここからはそんな諫早湾を紹介していこうと思う。


百聞は一見にしかず。文章よりも上の画像をご覧いただきたい。ここは諫早湾にかかる堤防上の道路である。正面に見えるのは雲仙普賢岳、1991年に噴火して山の形が変わった場所であるが、これについては後でレポします。
右が内海で左が外海である。

左右で水の色が明らかに違うのがお分かりいただけるだろうか?


諫早湾、かつては宝の海と呼ばれた有明海の一部だが、堤防建設後は有明海苔の色落ち、奇形魚の増加が深刻になっている。さらには栄養分が多い河川の流入があるにもかかわらず遊水路も設けずに堤防を建設したため、内海では赤潮が発生しやすい。もっとも、赤潮は干拓事業の問題だけではなく生活排水も原因の一部だとされている。

内海   外海


内海からの水が外海に流れる様子。青い水が雨が降った後のような茶色い水に変わっているのが分かる。
国営諫早湾干拓事業には当然地元の漁協や自然保護団体などの猛烈な反対があった。
それでも279億円という巨額の補償を支払うことにより、このエリアの漁獲権を掌握した。もう内海で漁をするものはいなくなった。と言っても淡水化を進んだことにより2枚貝が激増したりしているのも事実。堤防を作ることによっての長所もいくらか見られる。
また、内海の水は栄養が豊富なため左の写真の近くには右の写真のような虫が大量発生している。


ただ、悪いことばかりではない。ちゃんといろいろと考えた上で事業が計画されているのもよく分かる。上の看板に利点も書かれているのでよく見てほしい。

さらに詳しくこの問題について内容を詳しく知りたい方は、下記のリンクに諫早湾干拓事業の開門調査検討会議に関する質問主意書に対する当時の小泉首相による答弁を見ることもできる。
http://www.mmjp.or.jp/jcp-ozawa/new_page_247.htm#20030701

当問題をあまり詳しく掘り下げ過ぎてしまうとこのサイトの趣旨に反するし、そもそも私は国の事業を否定するような扇動をするつもりは毛頭無い。失敗から学ぶこともたくさんあるはずだ。
ただ一つ、「2533億円をかけた事業が調査不足で失敗でした」
などと言われても地元住民は釈然としないはずである。

この堤防道路を抜けると、雲仙普賢岳が目の前に聳え立っている。お次は火砕流のものすごさを写真で伝えていきたいと思う。


長崎県の標高最高峰は「平成神山」という1990年から1995年に火山活動により形成された1483メートルの山になります。
右の写真の大斜面は噴火活動時によるもので、剥ぎ取られた土砂は溶岩と共に土石流となって下流域の街を飲み込んでいった。火砕流は時速100キロで駆け抜け、その被害者となった警官や農作業員は43名にも上る。



この火砕流事件のあと、地元自治体は強制力のある避難勧告を発令し、およそ11000人が避難生活を余儀なくされた。もっともこと判断は正しかったと思う。火砕流で亡くなった方の中には予想以上に一般市民が多かったからである。
先ほど死者行方不明者が43人と述べたが、その内訳は消防隊員12名、警察官2名以外は現場にいてはいけない一般市民だったということが分かった(インターネットでの情報ですが)
もともとは森だった場所が15年以上たった今でもこの有様である。徐々に植生が繁茂していく様子が見て取れるが元の森の姿に戻れるのはまだまだ時間が必要であることは言うまでもない。
森は再生されるが命は戻らない。
当時、日本テレビのカメラマンが火砕流によって殉職した。その際に彼が抱えていたソニー製のビデオカメラが14年ぶりにボロボロの状態で発見されたという話がある。そのカメラには一本のテープが入っており、奇跡的に中の映像を取りだすことができた。
「NNNドキュメント'05解かれた封印 雲仙大火砕流378秒の遺言」という番組でその378秒の映像が流されたらしいが、今更だがとても見てみたい。彼が死の間際にどんな映像を残したのか。どんな言葉を残したのかを知りたい。
ともすれば「バカなカメラマンだ」などと笑われてしまうかもしれないが、迫り来る火砕流に自分が助からないことを知った彼は、飲み込まれるまでの時間をどのように過ごしたのだろうか?死を受け入れ、覚悟し、最後まで仕事を全うしたのではないだろうか?

この光景をナマで見た時に自分が当時この現場にいたら最後にどんな行動をとるんだろうと想像していた。旅は基本的に発見が多くて楽しいことが多いですが、時々こんなふうにシリアスな展開も訪れます。
テレビを通してよく見ていたこの島原という土地には、生で見て初めて感じる何かがある。
天災の前には人はあまりにも無力だということを思い知った。




島原から天草へと向かうため、島鉄フェリーに乗り込む。さすがゴールデンウィーク、左の写真にも書いてあるが「時刻表に関係なく、船は常に行ったり来たりのピストン輸送をしている様子。これは大変助かった。予約も何もしてないのでちゃんと乗れるか心配でしたがなんと1回待ちで乗れました(^^ゞ 右の写真を見てもらうと分かるが私の車は最後尾で、あと3台分来るのが遅かったら次の便になっていたところである。下手をすると港で2時間くらい待つことになってたかもしれない・・・・・



長崎編はこれにて終了です。
長い長いレポートでしたがまだまだ紹介しきれていないところはたくさんあると思います。
やはり車では厳しい離島は最大の難敵である。対馬や五島列島も行ってみたいけど気軽に・・・というわけにはいきませんね(-_-;)

長崎県は他の都道府県と違い、江戸時代に唯一の外交があった場所ということで西洋色の濃い風土が新鮮感をもたらします。結果、レポートがこんなに長くなってしまいました。
発見と驚きと考えさせられる点が多かった県でした。また行くことがあればレポを追加します。